誕生から50年以上経っても、なお人気は衰えることのないキャラクターのドラえもん。オバケのQ太郎のヒットから地続きで連載が始まったドラえもんでしたが、その誕生までの過程は簡単なものではありませんでした。本記事では当時の漫画界の状況を踏まえ、作者の苦難の道程を追います。
なお、『オバケのQ太郎』は藤子・F・不二雄先生と藤子不二雄A先生の共著です。以降、藤子・F・不二雄先生を「作者」と便宜上略します。
漫画家・藤子不二雄の地位を確立した作品が、1964年に少年サンデーで連載を開始したオバケのQ太郎です。アニメは最高視聴率36.7%を記録1、商品化は電化製品、日用品などあらゆる分野に広がり2、オバQブームと呼ばれる社会現象を引き起こすほどのヒットとなります3。ブームの最中に完成した小学館の社屋はオバQビルと呼ばれ、版権収入によるものと噂されるほどでした4。
しかし、アニメは高視聴率を維持していたにもかかわらず5、スポンサーのキャラクター商品の売上は低調、スポンサーと代理店からの要請で新しいキャラクターへの切り替えを余儀なくされます6。
オバQの後、同様の生活ギャグ漫画の路線を継ぐパーマン、21エモン、ウメ星デンカと続く新連載は、どれも1年程度で終了してしまいます7。とくに後者の2作は作者も楽しんで描いていたにもかかわらず、人気が出ない現状に作者は焦ります8 9。
当時、漫画は大きな変革の時期を迎えていました。子どもだけでなく大学生や社会人も漫画を読むようになり読者層が拡大する中で10、青年層を狙い劇画漫画家を起用した『少年マガジン』の戦略が当たり、『巨人の星』や『あしたのジョー』が人気を博すようになります11。
他にも『ガロ』『COM』のような青年雑誌で、若手による個性ある実験的な漫画が登場12。漫画の読者層や作風が新たに切り開かれ、従来の児童漫画の地位は低下しつつありました13。トキワ荘の仲間で児童漫画に固執した寺田ヒロオさんも時流に乗れずこの少し後に引退14、他の児童漫画家も多くが大人向け漫画へ移行します15。
ライバルの少年マガジンの隆盛の横で試行錯誤する少年サンデーの編集部は16、作者に大人向け漫画を打診します。21エモンに登場するイモ掘りロボット・ゴンスケを主人公とするサラリーマン漫画の提案でした17。
しかし、「一生に一度は、読んだ子供達の心にいつまでも残るような傑作を発表したい18」と児童漫画に対する信念をもつ作者はこの申出を断り、創刊号から縁のあった少年サンデーを自ら降板します19。
「サラリーマンゴンスケ」には今の処、興味がもてないのです。(中略)
私にも児童マンガのありかたについては信念めいたものがあり、ある限度以上はどうにも動かし難い部分が残ります。(中略)
残された道は只一つ。しばらく「少年サンデー」の執筆陣からはずしていただく他なさそうです。
藤子・F・不二雄:少年サンデー編集長・高柳義也に送った手紙より20
作者は最終的には児童漫画を描き続け、その生涯を終えました。しかし、児童漫画の連載の合間に描かれた単発の大人向けSF短編もまた高く評価されています。
作者が大人向け漫画を描くきっかけとなったのはビッグコミックでした。従来の枠から出ることを恐れ21、絵が子ども向けだからと辞退する作者に対し、編集長が逆にその絵だからこそ怖いのではないかと説得した結果、人間が牛に家畜として食われる世界を舞台に価値観の崩壊を描く名作「ミノタウロスの皿」が誕生します22。
意外に好評だった本作で、作者も新たな境地を見出します8。SFの好きな作者が楽しんで描ける大人向け漫画が気分転換になり23、精神的にも安定し児童漫画の執筆にも良い影響を与えたようです24。
作者は晩年、体調不良により大長編ドラえもん以外の連載を中断します。ドラえもん以外で最後に描かれた作品がビッグコミックの「異人アンドロ氏」でした25。ビッグコミックから始まった大人向け漫画は、ビッグコミックで幕を閉じます。
この頃、小学館もスポンサーの意向に左右され作者が疲弊する状況に問題意識を感じていました。そこで、高い浸透率で子ども文化に貢献していた学年誌で26、小学館のサザエさんを創ろうと打診します27。当時のサザエさんは全国紙に登場してから20年、ちょうどアニメ化されすでに定番漫画となっていました28。
作者は学年ごとに連載することを了承するものの、新連載のアイディアに行き詰まってしまいます。締め切り直前の朝一で渡された予告は、いまとなっては伝説です29。
主人公は不明です。タイトルも不明です。判明しているのは「来月号から新れんさい」これだけです。
上司には厳しくしかられました。「タイトルは?」「主人公はこの男の子?」「この『出た!』というのはなんだ?」「これでわかるのは来月号から新連載が始まることだけだろ。こんな予告、よく受け取ってきたな」
元『小学四年生』担当編集・河井常吉30:『ドラえもんライフ 2024新年号』p.111
しかし、新人という立場で多忙な作者に確認をする勇気のなかった担当者は29、やむを得ず「すごーくおもしろいんだ! すごーくゆかいなんだ! でも、どんなお話かは、正月号のお楽しみ!」とハードルを上げます31。その一方、問題の原因を作った作者はそれを超える苦悩を抱えていました32。ドラえもんのライオン仮面の話で描かれるフニャコフニャ夫はもはやセルフパロディ。
(アシモフのエッセイ集に)独創力のための条件として、「①数多くの断片を持つこと」「②その断片を組み合わせる能力を持つこと」などが挙げられているのです。(中略)1つ1つをとってみれば、誰もが知っている断片を組み合わせることによって、この作品(のび太の恐竜)は成り立っているのです。
藤子・F・不二雄「ナントカカントカ」:『藤子・F・不二雄の発想術』pp.77-7833
まんがというものを分解してみますと、結局は小さな断片の寄せ集めなんですね。(中略)頭の中にしまいこまれている断片の集団を、あれこれいじくりまわして、あれが使えそう、これが使えそう、と組み合わせたり捨てたり組み立て直したり……。そういう作業の結果、1つのアイディアがまとまってくるのです。(中略)おもしろい断片を数多く持っていたほうが勝ち34、ということになるわけです。
藤子・F・不二雄:『藤子・F・不二雄の発想術』pp.100-10135
予告をひどい手法でしのぎ、前作『ウメ星デンカ』の「壺から道具を出す」という案を元にアイディア創りに着手した作者でしたが、本編の締め切り直前になっても構想はまとまりません36。
作者の頭の中で、数多くの断片が舞います37。魔法では面白くないから未来の道具、オバQは犬こんどは猫、好きなSF小説『夏への扉』は猫とタイムトラベル38、そして娘さんの人形「ポロンちゃん39」が結びついたその瞬間。
誕生したドラえもんは、実際の執筆に向けブラッシュアップされます。
1970年1月『ドラえもん』はよいこ、幼稚園、小一から小四までの計6誌の学習雑誌で同時連載を開始。
元雑誌ではのび太の顔をウメ星デンカの中村太郎くんに描き間違えたり、ポケットの描き忘れが多発したりとミスも散見されるところが43、締め切り直前の大逆転劇を想像させます44。
誰にも注目されずにひっそりとスタートしたドラえもんは学年誌で地道に地盤を築き29、単行本の刊行、総集編としてのコロコロコミックの創刊、アニメ化を経て国民的な人気漫画へと成長していきます。その後、最後の最後までドラえもんを描き続けた作者とその意志を引き継いだ関係者、そして全国のファンの活躍により、ドラえもんは現在も人気キャラクターとして不動の地位を占めています。
ドラえもん誕生エピソードは作者により漫画化され、てんとう虫コミックス0巻と大全集20巻に収録されています。
本作「ドラえもん誕生」について、作者と親交があったジャンクハンター吉田氏が興味深い発言をされており、元アシスタントのえびはら武司氏がこの情報を元に漫画化しています。
「夏への扉」は藤本先生にとって非常に重要なファクターになっていて、(中略)結局まんがにした時にはハインラインの話はいっさいできなかったと。僕は『ドラえもん誕生』って実話だと思っていたので、それを聞いて驚いたんです。階段から転げ落ちて、ポロンちゃんとネコをくっつけてドラえもんに……っていう流れはあくまでフィクションだったんですね。
ジャンクハンター吉田:『NeoUtopia 57号』pp.22-23
ドラえもん連載開始前の作者の様子を関係者は次のとおり証言しています。
案は考えたんだけどキャラクターがまだできていないっていうんだ。(中略)キャラクターを作るのに結構苦労してたみたいだね。猫のデッサンを漫画化したものをいっぱい描いていたから。
藤子不二雄A:『藤子・F・不二雄の世界』p.67
キャラクターの見本の絵柄を見せられて、ああでもない・こうでもないという相談や打ちあわせは私も受けました。耳のないネコ型ロボットという案はある程度固まっていたようですが、藤本氏も迷いがあったのかも知れないですね。
永田竹丸:『NeoUtopia 41号』p.118
どこまでがフィクションなのかは想像するしかありませんが、『夏への扉』のネコとポロンちゃんでキャラクターデザインの原案はできていたものの、確定版が決まらず試行錯誤。そんな過程を描いてもつまらないということで、ネコと遊びながらポロンちゃんを蹴り飛ばしたはずみで偶然ドラえもんをひらめいたことにしたということかもしれませんね。
※オバQに興味のある方には、リバイバル版の新オバQをおすすめします。いまでも超面白く、私的藤子・F・不二雄三大傑作(ドラえもん・モジャ公・新オバQ)のひとつです。
もうひとつの大傑作『モジャ公』の記事はこちら。
※1960年代後半の漫画界の状況に関する参考文献:藤子不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた』、澤村修治『日本マンガ全史』、大野茂『サンデーとマガジン』、清水勲『図説 漫画の歴史』、山森宙史『「コミックス」のメディア史』、清水勲・猪俣紀子『日本の漫画本300年』
※藤子・F・不二雄作品の連載時期に関する参考文献:「藤子・F・不二雄著作リスト」『藤子・F・不二雄ワールド まんが傑作選 F THE BEST』pp.668-673
- 『Fライフ 1』p.19[↩]
- 『小学館の80年』p.254[↩]
- 『藤子・F・不二雄の世界』p.46[↩]
- 実際に建設計画が始まったのはオバQ開始より前。主に『日本百科大事典』の売上が貢献。:『小学館の80年』p.223、大全集『すすめロボケット 2』p.432. 林四郎氏コメント[↩]
- 『1999年までのアニメ視聴率まとめ』によると、視聴率はほぼ30%以上を維持。[↩]
- 藤子不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた』(文春文庫版)p.241、大野茂『サンデーとマガジン』pp.224-225. 小西湧之助氏コメント、安藤健二『封印作品の憂鬱』pp.91-92. 赤座登氏コメント、大全集『とびだせミクロ 1』p.492. 井川浩氏コメント[↩]
- パーマンはそれなりの人気があったが、ウメ星デンカは漫画もアニメも目立たなかったとのこと。『テレビ史ハンドブック』(p.247)によると、パーマンは1968年に視聴率27.7%、後継番組の怪物くんは1969年に27.0%とその年のアニメ視聴率2位を記録しています。ウメ星デンカは曜日や時間帯の変更の影響もあるのか『1999年までのアニメ視聴率まとめ』に記載はありません。当時アニメ化されていない21エモンは、作者いわく不人気での打ち切りです。:『週刊読書人 2009年8月14日号』2面. 野上暁氏コメント、『愛蔵版 モジャ公』p.3. 作者コメント(大全集『モジャ公』pp.679-680に転載)[↩]
- 中央公論社『愛蔵版 藤子不二雄SF全短篇 1 カンビュセスの籤』まえがき. 作者コメント(大全集『SF・異色短編 1』pp.430-433に転載)[↩][↩]
- 21エモンの面白さがわからないのは、読者に問題があるだけです(私見)。後継作『モジャ公』は先進的すぎたのでしかたありません。:「狂気あふれる名作『モジャ公』 藤子・F・不二雄の最高傑作!?」[↩]
- 山森宙史『「コミックス」のメディア史』p.85[↩]
- 清水勲『図説 漫画の歴史』pp.93-94[↩]
- 澤村修治『日本マンガ全史』pp,177-178, 187-189[↩]
- 清水勲・猪俣紀子『日本の漫画本300年』p.272[↩]
- 中川右介『手塚治虫とトキワ荘』pp.367-369[↩]
- 藤子不二雄A『Aの人生』p.106. トキワ荘グループで児童漫画を貫いた漫画家に永田竹丸氏がいます。:東京新聞「先月死去トキワ荘「通い組」永田竹丸さん 児童漫画一筋、貫いて 震える手で描いた色紙が遺作に」(2022年11月8日朝刊24面)リンク先はWeb版[↩]
- 大野茂『サンデーとマガジン』pp.253-254[↩]
- 関連は不明ですが、低学年誌でもゴンスケ主人公案が出たものの、作者にやんわり断られたとのこと。(大全集『てぶくろてっちゃん 2』pp.312-313. 野上暁氏コメント)[↩]
- 作者が正子さんに送った手紙より。 婚姻した直後の手紙とのことなので、1962年ごろと推定。2013年10月21日放送『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK)、婚姻年は『Pen+ 大人のための藤子・F・不二雄(2012年10月1日号別冊)』(p.46. 正子氏コメント)より。[↩]
- 2006年2月19日放送『ドラえもん誕生物語 〜藤子・F・不二雄からの手紙〜』 本番組は非常に貴重な証言が多いのですが、残念ながらDVD化されておらず、現在視聴困難な状況です。一部証言部分を次の記事にて書き起こしています。「インタビュー書き起こし」 サラリーマンゴンスケとサンデーの降板の件については、本番組を元に『ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉藤子・F・不二雄』に記載されています。[↩]
- 2013年10月21日放送『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK) 本手紙の内容は次の記事で書き起こしています。:「手紙書き起こし」[↩]
- 2013年10月21日放送『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK)で放送された1984年の作者講演より。[↩]
- 『藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 5』pp.362-363. 小西湧之助氏コメント[↩]
- 『ぼくドラえもん 19号』p.10. すがやみつる氏コメント、『月刊ニュータイプ』p.12. 1990年6月号. 作者コメント(『藤子・F・不二雄SF短編コンプリート・ワークス愛蔵版 1』pp.299-300に転載)[↩]
- 『ビッグ作家究極の短編集 藤子・F・不二雄』p.233. 平山隆氏コメント[↩]
- 本作はシリーズ化する予定だったため、続編を示唆する結末となっています。:大全集『ドラえもん 20』p.611. 平山隆氏コメント[↩]
- 『小学一年生』の浸透率はドラえもん連載開始の1970年時点で4割以上、ピークを迎える1973年で57.9%:河野誠哉「〈学年誌の時代〉をめぐる社会史的考察 : 書店と戦後日本社会」『山梨学院大学経営情報学論集 第21巻(2015年2月)』pp.57-59[↩]
- 『映画ドラえ本 「のび太と緑の巨人伝」公式ファンブック』pp.114-115. 井川浩氏コメント[↩]
- 『ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉長谷川町子』pp.161-162[↩]
- 『のび太くん てれびくん1月号増刊』pp.52-53. 河井常吉氏コメント[↩][↩][↩]
- 小学四年生に掲載された「未来の国からはるばると」のラストの電柱の広告「河井質店」の元ネタの方と考えられています。加えて、しずかちゃんの名前は河井さんの初恋の人が由来という説も。:『のび太くん てれびくん1月号増刊』p.53。[↩]
- 『ドラえもんライフ 2024新年号』p.111. 河井常吉氏コメント[↩]
- 必要な展開の行方が誰もわからない事件は映画でも起こります。しかも毎回:「ドラえもん『のび太のねじ巻き都市冒険記』はどこまでが作者の構想だったのか?」[↩]
- 初出は『藤子不二雄自選集 2 ドラえもん SFの世界 2』[↩]
- 2013年10月21日放送『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK)で流れた録音を聞くかぎり、「価値」が正しいかもしれません。[↩]
- 1983年第5回藤子不二雄賞コメント[↩]
- 『ザ・テレビジョン』p.47. 1993年9月10日号. 作者コメント[↩]
- 以下、注記のない出典は次のとおり。①「未来の道具」「耳を取る」「青色」:『Fの森の歩き方』p.259. 作者コメント(初出は『文藝春秋 1994年2月臨時増刊号コミック’94』)、②「オバQは犬、今度は猫」「ポロンちゃん」「ドラえもんの名前の由来」:『オレのまんが道 2』pp.81-82. 作者コメント[↩]
- 『藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 7』p.367.長女・匡美氏コメント、『NeoUtopia 57号』pp.22-23. ジャンクハンター吉田氏コメント. えびはら武司『藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道 ドラえもんたちとの思い出編』pp.31-35にも同様の記載がありますが、内容から吉田氏からの伝聞情報と推察されます。[↩]
- 作者の出産祝いとしてアシスタント数人でこの人形を購入し、作者宅に届けたのが元アシスタントの志村みどりさんとのこと。志村(本名:静枝)さんは、しずかちゃんの名前の元ネタという説があります。:大全集『オバケのQ太郎 12』pp.306-307. 荒俣宏氏コメント[↩]
- 2006年2月19日放送『ドラえもん誕生物語 〜藤子・F・不二雄からの手紙〜』ナレーション. 具体的な情報元は不明。[↩]
- 『映画ドラえ本 「のび太と緑の巨人伝」公式ファンブック』pp.114-115. 井川浩氏コメント. 実際にロゴデザインを製作したのは『オバケのQ太郎』のロゴと同じ赤松育延氏、それを元に現デザインに改良したのが有賀一宇氏です。:『ドラえもん深読みガイド』p.50、ネオ・ユートピア『129.3 mini』pp.130-131[↩]
- 『週刊読書人 2009年8月14日号』2面、野上暁氏コメント[↩]
- 作者存命時に単行本に収録されたものはおおむね修正されました。なお、顔の描き間違いはてんとう虫コミックス0巻「未来の国からはるばると」初出版で再現されています。こんなところまで再現しなくても。[↩]
- もっとも、この後も忙しいせいかミスは結構あります。[↩]